石屋 幸児の日記

いい墓地・いい墓石に関する情報、石に関する知識、
イベント開催の情報など、三代目山田幸児が日々綴っていきます。

争続から爽続へ

人はこの世に生を受けた以上、必ずいつかは死を迎えます。

そして人は自分一人の力で叶えれる事といえば微々たる物だと感じます。

しかし、周りの方々の力を借りれるのであれば一人で行う以上に何倍も何十倍もの知識が集まり力が発揮できるのではないでしょうか?

良く周りの方から聴かれる事があります。

『毎日、何の為に働いていますか?』と

考えてみると

・お客様に満足して頂き感動され喜んで頂きたい

・自分が十分に納得できる仕事がしたい

・スタッフのご家族を物心ともに幸せにしたい

・先祖からお預かりした会社を守り発展させたい

・自分の仕事の技術を活かし社会貢献をしたい

など色々な事が思い浮かびますが根底にあるのは

『家族を幸せにしたい』

ということでした。

私がこの世に生まれて来れたのも先祖と両親のおかげであり自分の子ができたのも妻と出会わなければ叶えれなかった事なんです。妻と結婚で来たのは妻のご家族のおかげなんです。

その事もみなさんと一緒ですよね。

最近では

終活

という言葉がテレビや新聞やラジオなどあらゆるところで聴かれます。

・終活と聴いても何の事かさっぱりわからない。

・大切な家族に何か少しでも残して逝きたい

と思っておられたら全文でも書きましたが自分一人で考えていてもなかなか答えはでないでしょう

そんな時は何でもプロに任せるのが一番です

相続・終活のプロは東京など都会だけでなくちゃんと富山県にもおられますよ

私も日頃から親しくさせて頂いていますが笑顔が素敵で話しやすく心がクリーンで情熱的な方です。

気になる方は一度、こちらのホームページをご覧下さい!

【富山県唯一の相続診断士事務所 ライブリッジ 代表 川口宗治】

http://www.libridge-souzoku.jp

私は絶対にしてみます。自分の家族は

明るい爽続へ

2017年1月17日

土間の破損にお困りの方!

 昭和40年代〜昭和50年代頃、お墓の土間の仕上げの材料といえば玄晶石を貼る事が流行でした。

その玄晶石も近年、どんどんと剥がれてきています。

はがれる原因といえば玄晶石自体が石が薄く軽い為に雨天時や特にこの冬場、雪が積もり気温が下がった時に基礎と石の設置面に氷が張り外れていきます。

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対処法といえば一度、基礎から玄晶石を外し石を綺麗に洗い乾かしてから石材用の強力な接着剤で貼り直す事であれば業者に依頼をしなくても少しづつ行っていけますがもって5年程です。

数十年と剥がれないようにする為には玄晶石を全部外し、厚み2㎝〜2.5㎝の御影石を貼る事により頑丈かつ仕上げも綺麗です。

施工代は材料代+施工代で30,000円+消費税(1平米)でリーズナブルな価格で施工させて頂いておりますのでお客様にも喜ばれています。

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蝋燭 線香 お花を供えお参りする事も大切なご先祖様への供養ですがこのような事もご先祖様に対する敬意の一つだと考えます。

どうぞ一度、皆様のお墓に足を運んでみて下さい。

 

気軽に【お問い合わせは】

(有)山田清次石材店 ☎︎076-451-0313

http://yamada148.jp

 

 

 

 

 

2017年1月16日

お墓の歴史


亡くなった人をお墓に埋葬する歴史は古く、日本各地に残されている古墳に見られるように、古代から始まっています。しかし、古墳は天皇をはじめとする支配者階級の人に限られていました。一般的には、死後は土に還すという意味合いから、遺体がそのまま放置される風葬や遺棄葬が中心でした。平安時代になって仏教の普及に伴い、上層階級には火葬にして骨を埋葬する風習が広がりますが、庶民は土葬が主で、まだ遺棄葬にすることもあったようです。やがて、庶民にも仏教が浸透するようになり、江戸時代になると檀家制度が確立されます。お寺との結びつきが強くなり、一般庶民も墓を建てるようになってきました。

 最初は遺骸を木棺や桶に入れて土葬した上に霊魂を封じ込めることを目的として土饅頭を築いたり、石を置いたり、常磐木を立てたりというようなものでした。武士階級では、板塔婆とか石塔婆などを建て、これが近世の卒塔婆や石の墓標の原型ともいわれています。一般庶民にも石の墓標が建てられるようになり、最初は一人一基の個人墓がふつうでしたが、大正時代から昭和時代初期にかけて、墓地不足などの理由から庶民も土葬から火葬へと移行し、「○○家之墓」というような今日のスタイルになってきたのです。

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 大正時代から昭和時代の初めにかけ、都市に人が集中するようになると従来の寺院墓地や公営墓地だけでは墓地が不足し、広大な敷地に整然と区画整理された公園墓地が出現します。緑や草花が彩る閑静な公園の墓地は、死後の安らかな眠りが約束されたようで関心の高い墓地です。墓地不足がますます深刻化する現在では、民営の墓地が増え始め屋内墓所、納骨堂、地下式霊園などの新しい形態が登場。お墓事情が様変わりしています。
 

 お墓は最後にたどりつく安住の地です。死後の早い時期にお墓を建てるのが望ましいのですが、法律的には「墓地として都道府県知事の許可を受けた地域の土の中に葬る」を守れば、建てる時期に制限はありません。多くの場合は開眼供養に親族が集まることを考慮して、四十九日や百か日忌、一周忌などの命日に建てるようです。また、墓地不足や経済的事情などですぐにはお墓を取得できない場合は、遺骨を菩提寺や納骨堂に預けたり、自宅の仏壇に安置しておきます。さらに、墓地を取得したものの、すぐにはお墓が建てられない場合は、とりあえずは遺骨を納めるカロート(納骨棺)だけを作って埋骨を済ませて、卒塔婆や墓標を建てて供養します。

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 最近、墓地不足の深刻化や”死”を身近な問題として考える人が多くなり、生前に墓を建てる人が増えています。これを寿陵と呼び、長生きできる墓とか縁起の良い墓ともいわれ、慶事として扱われるのです。寿陵には、戒名の字を朱書きにする習わしがあり、亡くなったら墨を入れ、朱を消します。寿陵の増加により、対応してくれるところは増えていますが、霊園によっては、遺骨がないとお墓が建てられない場合もありますので、事前に確認が必要です。


 

2017年1月15日

お墓は何故必要なのでしょうか?

昔より、人が亡くなると、生命の誕生とされる大地へ還す(土へ還す)として埋葬されてきました。
そもそもお墓はなぜ必要なのでしょうか?

突然ですが皆さん、亡くなられた仏様の魂はお位牌(いはい)とお墓のどちらに宿っていると思いますか?
日本にも飛鳥時代に伝わったとされる、中国社会の礼に関する諸説を集めた『礼記(らいき)』という本の中に書かれている内容ですが、『人は亡くなると、魂気(こんき)は天に還り、形魄(けいはく)は地に還る』とあります。
これは、人が亡くなると目に見えない精神の魂は天に還り、形(肉体)ある魂(白骨)は大地に還る。だから二つの魂が宿るということです。

つまりお仏壇にご安置したお位牌には精神の魂が宿り、お墓には肉体の魂が宿るということなのです。
このようにお墓にも大切な意味があるのです。
そして、お盆にはご先祖様が家に帰ってくるといいます。
お墓に行き灯明を家に持ち帰り、精霊棚(しょうりょうだな)のお位牌前の灯明と一つにすることで、無事ご先祖様がわが家へ帰ってくることができるのです。

私たちが今、豊かな明るい家庭を営んでいられるということも、ご先祖様がいて、そのおかげで自分が存在しているからなのです。
だからこそ、ご先祖様に感謝するという気持ちを持ち続けなければいけないのです。
お墓とは、ご先祖様に感謝の気持ちを伝え、また自分の近況を報告するなど、ご先祖様と語り合う場所なのです。
また、ご供養することの大切さを子孫代々伝えていく場所でもあります。

現在では、新しい風習として『散骨(さんこつ)』という言葉を聞いたことがあると思います。これは亡き人の遺言などでお骨を海や川、山などに撒く葬送のことです。
墓地や埋葬に関しては『墓地、埋葬等に関する法律』というものがあり、その中では、「埋葬または焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域で行ってはならない。」という規定があります。
しかし、節度を持って行う限りは問題ないということで、所轄省庁でも一部を認めています。
散骨は故人の遺言であれば、その願いを叶えてあげることも大切ですが、お骨には魂が宿っているわけですから、お墓に埋葬し大地へ還してご供養し、一部を散骨してあげることが望ましいと思います。

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2017年1月14日

お墓の歴史知っていますか?

日本でも古く縄文時代から死者を埋葬する習慣がありました。
弥生時代になると甕棺(かめかん)、木棺(もっかん)、石棺(せっかん)などにご遺体を納め、埋葬されるようになりました。


古墳時代に入ると、その名が示すように巨大な古墳が数多くつくられるようになりました。
これは、一部の支配者の権力を誇示するために巨大化していったといわれています。代表的なお墓は、大阪にある仁徳天皇陵の前方後円墳です。p_01

その後、大化の改新で「簿葬令(ぼそうれい)」という詔(みことのり)が出されます。
これは今までのお墓づくりに莫大な規模の費用をかけ過ぎたことへの戒めとして、墳墓(ふんぼ)の規模や葬儀の儀礼を縮小簡素化するためのものでした。
これにより身分ごとにお墓の規模や工事に携わる人数、工期日数また葬具などを細かく規定したといわれています。
しかし、一般民衆のお墓はというと、共同の埋葬地に土葬をし、その上に盛り土をしたり、手頃な石を置いたり、木の杭を建てていたようです。

平安時代に入ってからは、一部の特権階級ではすでに石を加工し、お墓を建てていたことが書物からも読み取れます。
鎌倉・室町時代には仏教が広く普及し、戒名や位牌(いはい)などの習慣も取り入れられました。
この頃の日本のお墓の形は「五輪塔(ごりんとう)」と呼ばれるものです。

五輪塔
五輪とは仏教では宇宙のすべてを形成する五大元素(地・水・火・風・空)を指します。
「人が亡くなると肉体は五大に還元し、死者を成仏させ、極楽浄土へ往生させる」という教えをもとに模(かたど)られた五輪塔は仏教的な意味を持つ歴史あるお墓の形といえるでしょう。
現在、多く使用されている一般的なお墓の形である角柱の三段墓は、江戸時代中期から普及した形です。

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また、江戸時代になると檀家制度が敷かれ、ご先祖様に対するご供養やご葬儀・お仏壇・お墓などの仏事が生活の中に定着し、庶民の仏教に対する信仰が確立しました。
明治維新により、檀家制度は法律上での根拠を失いますが、庶民とお寺の結びつきは強く、仏葬(ぶっそう)も引き継がれ現在に至っています。また、明治時代になると都市への人口が集中したこともあり、東京の青山霊園をはじめ、大正時代には多磨墓地(現在の多磨霊園)など大きな霊園もつくられるようになりました。

このように、お墓の形は様々に変化してきましたが、何千年も前から死者を埋葬し、ご供養する形は変わっていません。
ご先祖様を敬い、生きている人の仕合せを願うお墓は今も私たちの暮らしの中に存在しています。

2017年1月13日